三島由紀夫が語る「映画と小説の関係」

2020/09/18 ・ 書籍 ・ By 秋山俊
三島由紀夫(1925-1970)

映画と小説は対立するか

映画と小説は20世紀から常に1つの競合相手とみなされてきたが、三島は「映画と小説は二律背反」だと語る。以下の引用は「人間」昭和26年5月号に掲載された吉村公三郎、渋谷実、爪生忠夫たちと三島由紀夫の対談から。

しかし、映画と小説はもともと分かれてしまっているので、僕は縁なき衆生だと思ってるのです。映画も小説に色眼を使わず、小説も映画に色眼を使わないのが本当で、映画と小説は二律背反ですよ。

小説、映画は、戯曲のほうが形式としては古いけれども、いままで残って対立している。小説も映画より古いけれども、対立して残る。文学も対立して残るには映画が成長してきて、小説とお互いに分野を分担するまで映画が成長してこなければならぬ。ところが、映画は小説と戯曲が対立しているように、小説とは対立していないのですよ。あまりに商業的な性格が強かったり、直接的な効果に頼りすぎたり、そういう面で、僕は小説に絶望していないけれど、だけど、映画を相手にして小説に絶望するには映画が弱すぎる。映画は映画でもっと小説のお株をいくらでも奪るがいい。奪り尽した上でまだ小説というものはあるということを言いたいのです。

小説が映画から影響を受けていないというのは七〇%ぐらいまでそう言いきれる。あと三〇%ぐらいは、やはり映画のシナリオの筋になるような小説を書くのは、ちょっと沽券に関わるという気持で小説家が書いていた。これは三〇%ある。ことに三十年以後、その辺からあとは非常にあると思うなア。

「奪り尽した上でまだ小説というものはある」という三島の力強い断言。映画が芸術として発展して小説の特権をさらに奪っても、小説は残る、と。

以下は「映画の可能性」についての議論。

大体どんな芸術でも発展期は非常に発達して、一応完成してしまうと発達しませんよ。映画は立体映画とか聴覚、色彩がある。さらに匂い、それこそわきがの匂いが映画でかげるようになったって、一方に映画の本質的な運命があるので、その運命的性格は抜け切れない。小説も小説の運命的な性格は抜け切れない、という考え方ですがね。

(映画の可能性は)まだまだ拡がっていないと思う。やっばり商業主義だと思うんです。拡げさせないものは……。商業主義が、映画を講談本や、新聞小説を一時間半で読めるようにしたがったり、そういう要求が多いでしょう。

実際に映画というメディアはこの頃、まだまだ発展途上であり、現在の映画は技術的にも表現媒体の種類でも、大きく進化した。商業主義による映画の発展の拘束は、高性能カメラの低廉化やネットメディアの発達により、大して予算をかけず大勢に鑑賞されることも可能となり、昔に比べれば部分的に弱まってきている。

しかしそれでも「映画の本質的な運命があるので、その運命的性格は抜け切れない。」と語る三島。この議論は後半のカイヤットとの対談でも出てくる。

『人斬り』(’69)に出演した三島由紀夫(左)

これとは別に、「映画と大衆性」「どこまでわかりやすくするか」という議論が以下。

三島―― そうすると、映画の本質というのは人にわからせるということだとお思いになる?

吉村――それが本質だとは思わないけれど、わからせようという努力を払うことが作家の義務だと思っています。

渋谷――しかし、全部じゃない。

三島――そこにまだ映画の弱さがある。小説の場合は、わからせようという努力が五〇%だと思う。なぜかというと、自分の言いたいことがあるのです。黙っていちゃわからないのです。その場合表現を考えるでしょう。表現にむずかしい制約があり、自分の趣味(テースト)があり、それに縛られて必ずしもわかりいい表現でないけれど、しかし相手に通じなかったら文学は対話だから成り立たない。そこでわからせようという努力が五〇%ある。残り五〇%に表現のいろいろな微妙な問題が入ってくると思う。そうすると、わからせようという努力が九〇%の映画はまだ芸術として発達しているとは思えないのです。

もっと本質的に考えると、芸術というのは根本的にわかりやすいものでなければいかんというのが僕の考えですけれど、どうしてそういうところへ通じるか、美の理想は単純だと思うのですが、単純さは人間の本質的なもので、それはおのずからわかるものだ。だからいまのヨーロッパ文学よりも古典文学がわかりやすいのは単純だからなんです。進歩主義文学が矛盾に陥ったのは、そういう古典の単純さを無視してどんどん発展してさて、そして一応前大戦のああいうアヴァン・ギャルドがわかりにくくなって、その先にどんでん返しに民衆を考えだした。そうすると、文学は芸術以前に還らざるをえないでしょう。映画の場合でも同様に、もしわかりやすさを追求すれば芸術以前にいっちゃうね。芸術以前にゆけばソ連のプロパガンダだけど、アメリカの映画も同じになっちゃう。

三島由紀夫

映画には時代の事実が残る

基本的に三島は「小説は映画より(個々の作品が)長く残る」という考えの持ち主だ。その根拠はいくつかあったのだが、いくつかの対談などで挙げていた「フィルムは物理的に擦り切れてしまうから」という映画の欠点は、今日ではデジタル技術の発達で問題なくなった。

しかし他の理由もあった。その1つが「映画には時代の事実が残ってしまうから、芸術としての寿命が短い」というものである。以下は「改造」昭和28年12月号収録されているアンドレ・カイヤットとの対話から。

しかし芸術が時代を経て、ジャンルがだんだん変ってきたことはいろいろな意味があると思う。つまり、リアリズムの小説が十九世紀に発達したのですが、今その時代をよく表現しているものとして資料としてもよく読まれる。しかし小説は小説であって、事実の要素はほとんどない。映画は、更に「事実の世紀」に生れ、芸術であると同時に、甚く事実を援用したジャンルであるというように感じます。つまり、そのようにして残された芸術というのは、昔の美術品が残るよりももっとある時代の事実が残るという形で残るものが多いのじゃないか。純粋に芸術として(事実を援用されないで)残ることはむずかしいのじゃないかと思うのです。

これについて、三島は「小説の描写は読者が自由に解釈できる」という強みを持ち出す。

小説家として小説のえこひいきをすると、例えば言葉と時間という点において映画に対して小説が有利である。言葉はひとつひとつイメージをもっているものであるが、そのイメージは映画のように限定されない。例えば、「青」という字からある人は青空を連想し、ある人は青い着物を連想する。それは読者の自由です。

この「青」の例を、「今のは例の引き方が悪かったのですが」としつつも

別の例をひくと、例えばスタンダールの「ヴァニナ・ヴァニニ」。あの中に「ヴァニナ・ヴァニニはローマ第一の美女であった」とあるが、スタンダールはそう書いて突き放すだけで、あとは「日の輝きと漆黒の髪」と書いてあるぐらいで、何らヒロインの具体的な描写はない。そこで、その小説の読者はそれぞれ自分の好きな女のイメージを浮かべることができる。しかし、映画ではそれがひとつになってしまう。小説ならば、太った女の好きな人は太った女、やせた女の好きな人はやせた女を想像する、という自由があります。それを映画はイメージを限定し、強制するのです。

これについて、他に分かりやすい例は星新一の小説である。星新一のショートショートでは、作品ができるだけ長く残るように「電話した」という記述を「連絡した」に直すといった修正が行われた。これにより、小説は「電話」という、時代に固有の道具の描写を回避することができ、電話が消滅しても作品が古びないようにできる。

しかし、映画ではこういったトリックには制限がつきまとう。人物のファッションや都市の風景などを、どうしても固定されたイメージとして撮らざるを得ない。そのため、三島が活躍した1950-60年時代の映画を現在観れば、どうしても映像的には古い(技術的にも習俗的にも)。他方、三島の『金閣寺』は未だに古くならない。

『からっ風野郎』(角川書店, 1960)の出演したときの三島由紀夫

ただしカイヤットは三島の論に対して「映画は小説を(物理的に)そのまま撮ることもできる」といった反論をし、ベルナノスの『田舎司祭の日記』を例に出している。

映画と「時間」

対談はこのように終わったが、三島はあとがきで、小説と映画の「時間」への関わりの違いを挙げている。映画の尺には限界があるが、小説にはないというのである。

つまり映画は小説の有利な点を可成多くとり入れ得たジャンルであるが、時間の問題については、やはり舞台芸術の拘束を離れえない。二十四時間つづく映画など、どんな傑作でもお客が集まるまい。古い歌舞伎は一日がかりで一本の狂言をやっていたのであるが、読了にどんなに急いでも一日以上を要する小説は無数にある。プルウストの大部な小説は、その主題を表現するのに、あれだけの枚数をどうしても必要としている。つまり芸術における心理的時間は、ある程度、物理的時間の犠牲を要求するのであるが、この点で小説は、いくらでも長くかけるだけ、劇および映画より有利である。

本についての記事一覧

LINEで送る
Pocket

投稿: 2020/09/18 ― 更新: 2020/09/21
同じテーマの記事を探す
関連記事
コンテンツ
文客堂について