グレン・グールドは漱石の『草枕』を読み続けた / 横田庄一郎『「草枕」変奏曲』

2020/09/17 ・ 書籍 ・ By 秋山俊
横田庄一郎『「草枕」変奏曲 夏目漱石とグレン・グールド』株式会社朔北社, 1998年

「『草枕』を読むグレン・グールド」というフレーズが、なぜこれほど面白いかというと、グールドという人は世俗を超越した「謎のピアニストであり思想家」で、死ぬまでの15年間も傍らに置いていた『草枕』がその思想を読み解く「鍵」になるのではないかという期待からであり、あるいはまた、20世紀半ばに送られた「西洋から東洋への恋文」というオリエンタリズムを感じられるからであり、そしてまた「ピアニストと日本文学」という分野横断が成されているからでもある。

これと同レベルのインパクトを出そうと思ったら、たとえば(こんなものが現実にあったか知らないが)「『あしたのジョー』を読むパブロ・ピカソ」とか「『好色一代男』を耽読するオスカー・ワイルド」といったパワー・フレーズを持ち出さねばならないだろう。

横田庄一郎による『「草枕」変奏曲 夏目漱石とグレン・グールド』は、グールドと『草枕』という、稀代のピアニストと日本の意外な縁を紹介する本である。

ピアノを演奏するグレン・グールド

“『草枕』は最高傑作のひとつ”

以下はグールドがラジオの中で『草枕』の朗読をする際、冒頭で述べた言葉の、本書執筆者による翻訳である。(この朗読はYouTubeなどに上がっている)。

「草枕」が書かれたのは日露戦争のころですが、そのことは最後の場面で少し出てくるだけです。むしろ、戦争否定の気分が第一次世界大戦をモチーフとしたトーマス・マンの「魔の山」を思い出させ、両者は相通じるものがあります。「草枕」は様々な要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観の対立、モダニズムのはらむ危険を扱っています。これは二十世紀の小説の最高傑作のひとつだと、私は思います。

『「草枕」変奏曲』p.67
夏目漱石『草枕』新潮文庫

グールドの『草枕』への傾倒は相当のもので、英訳版や日本版などを合わせて4バージョンも所有し、本には大量の書き込みがあったという。さらに従姉妹にその朗読を2回も聴かせ、幻に終わったものの、『草枕』を朗読する本格的なラジオ番組を放送する構想も練られていた。死の床に並べられていたのは『聖書』と『草枕』だったと伝えられている。

グールドは他にも夏目漱石の『それから』『道草』『吾輩は猫である』『こころ』『三四郎』『行人』を所有していたことが、オタワのカナダ国立図書館のつくったリストから確認されている。

左手に『魔の山』を、右手に『草枕』を

グールドと『草枕』の出会いは35歳のとき。旅行中に意気投合したとある教授から、進呈した自身のレコードへの返礼として『草枕』が送られたのだという。以下が『草枕』を受け取ったグールドの礼状である。

『草枕』を送っていただいたのに、礼状を出すのがずいぶん遅れてしまって申しわけありません。『草枕』はとても素晴らしく、日本文学のある一分野を代表するものだと思いますが、私は日本文学について何も知らないのです……。

『「草枕」変奏曲』

グールドの『草枕』への傾倒は15年間も続いた。グールドはトーマス・マンの『魔の山』を愛読していたことも知られる。

こうしてグールドは、東西両極の名著を座右に置いたのである。このエピソードも、いかにも「ルネサンス的教養人」を目指したグールドに相応しいものであり、「文学青年グールド」という新たな一面の発掘は、グールドの魅力と神秘性をさらに高めている(グールドは他にも色々な文学作品を読んだらしい)。

トーマス・マン『魔の山』新潮文庫

では実際に、グールドの思想や音楽性は『草枕』から、いかほど影響を受けたのか。実のところ、それはちょっと分からない。『草枕』に関連した資料があまりに少ないのだ。グールドが残した書き込みの詳細が分かればもう少し踏み込めそうだが、この本からはその辺はあまり分からない。

これが本書の最大の問題と言えるだろう。この本、実はタイトルでの“出オチ”感が強い。本書の盛り上がりは「『草枕』とグレン・グールド」という巻頭のキャッチコピーがピークで、ではその関連は?というと、ほとんど推測しか述べられていないのだ。あとは220ページほど、あたかも学生がレポートの残り字数を埋めるかのように、長々とグールドの人生紹介や、英語版『草枕』の引用による翻訳紹介などが続く。

つまり全体としては「グレン・グールドのごく一般的な紹介」と「『草枕』の解説」で占められ、その中にいくらか、上述したような『草枕』に関連したエピソードが添えられている、という内容である。グールドの紹介は、彼についてあまり知らない人には面白いと思うが、特段目新しいものは『草枕』以外にはない。

正直、無駄が多すぎて全体としての出来はよろしくないのだが、それでもやはりタイトルのインパクトが強くて売れたらしい。数年のうちに続けて『漱石とグールド 8人の「草枕」協奏曲』という、8人でのオムニバス形式のエッセイや、『グレン・グールドを聴く夏目漱石』という「音と文芸」などをテーマにした小論集が出ている(後者の本は、どちらかと言えば漱石中心の文章論)。

『漱石とグールド 8人の「草枕」協奏曲』および『グレン・グールドを聴く夏目漱石』

映画『砂の女』を監督より多く観たグールド

ところで、本書で不意打ちのように飛び込んでくるのが「『砂の女』とグレン・グールド」というフレーズである。グールドはこの映画を「百何十回も」観たという。安部公房の小説を映画化したものだが、監督の勅使河原宏すらも「自分より多く観ている」と認めている(監督はグールドを以前から聴いてたらしい)。

彼が好んだ理由について、勅使河原は「思いつきですが、バッハに似ているところがあるのではないでしょうか」と述べているが、グールド側から監督へコンタクトを図るようなことは、特に無かったようだ。

グレン・グールドは知るほど謎が深まる。

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投稿: 2020/09/17
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