林望『役に立たない読書』で語られる理想の読書体験

私にとって読書は、広い意味での娯楽です。読んでいて楽しくなければ意味がないのです。そして楽しくさえあれば、なんの役に立たなくたっていいと思っています。

林望『役に立たない読書』集英社, 2017年, p.17

読書は自分の糧になって当然だという確信と、「読書は役に立つ」という即物的な確信を抱いて書に向かう姿勢からにじみ出るある種の貧しさ、そのアンビバレンスな状態をいつも自覚している。読書に実用性を期待するのは、卑しい下心ではないか。仮に私が霊的な存在で、この世で生きるのに一切の食料や金銭を必要とせず、永遠の時間を享受できるなら、私は読書の「実用性」を喜んで投げ捨てて、今よりさらにラディカルな「役に立たない」読書に突き進むかもしれない。

齋藤孝のような教養人たちが読書の必要性・実用性の主張に熱弁を振るい、活字戦線の義勇兵として抗う中、『役に立たない読書』というパンクなタイトルを掲げる本書だが、当然「読書なんてするな」という内容ではない。この本の言わんとすることは「読書は自然と湧き上がる欲求に従って行われるべきで、実用性だとか読んでいないと恥ずかしいからとか、そういう外的な要因に駆られて読書をするのは貧しい」ということ、つまり「『役に立たない』読書こそが最も豊かな読書体験である」という逆説である。

全7章のうち、第1-3章では「教養の深さは読書量に比例する」「有名な古典は読んでいて当然」といった一般的な信念に対する、林の痛快な反論が寄せられている。見出しだけ引いてみても「読めば教養人になれるという錯覚」「芥川賞・直木賞はひとつのファッション」「『読書会』は高級な暇つぶし」と、刺激的なフレーズが並んでいる。

ところがこの本を読んでいて感じるのは、些か過激で挑発的なタイトルや見出しとは裏腹の「安堵感」あるいは「許された感じ」である。そう、本書を読んでいると、読書にいつの間にか付きまとっていた強迫観念の怨霊が、すっと離れて身体が軽くなったような気持ちがするのだ。「急いで読んでも何も得られない」「ベストセラーや名著でも読まなくていい」「途中で挫折しても何の問題もない」「読書会や課題図書なんてやらなくていい」こうした読書にまつわる強迫観念を、明快な論理と歯切れのいい文体で次々に捌いていくのが痛快なのだ。

あれも読んだ、これも読んだと多くの本を読んだことを喧伝する人がいますね。「月に五十冊は読みます」とか自慢する人、「一日に二冊ずつ読んでいる」などと豪語する人、もしかするとあなたの周囲にもいるかもしれません。でも正直に言うと、そういう人に限って、あまり深みのない人物であったりします。(中略)「オレはもの知りだろう」と片々たる知識をひけらかすオジサンなどは、傍から見たらあられもなく感じられ、敬遠したくなりますね。

『役に立たない読書』p.8

読書は極私的なものですから、「古今の名著」などと称して、万人すべからく読むべしと推奨すべき書物など存在しない、というのが私の考え方です。自分にとって面白い本、よい本はあっても、万人にとって名著というものはありえない。

『役に立たない読書』p.64

他にも慶応大学院時代に、伝統ある読書会を無意味だからと解散を主張したら、他の学生も同感だったのか案外あっさり提案が通ってしまったエピソードなどが語られており、面白い。

林はこういった、見栄やファッションで行った読書が自分の血肉となったかを振り返ると「なにも残っていない」と打ち明ける。その理由を、これらの読書が「外的契機」によるものだからであるとまとめ、自らの内から湧き上がってくる「この本を読んでみたい」という自然な欲求、すなわち「内的契機」による読書体験をこそ追求するべきだと説く。

実に、何の打算も必要性もなく行う読書ほど豊かな時間はない。それはなんという贅沢だろう。究極的に娯楽性の高い読書にとっては、むしろ実用性などというものは、幻想世界への没入に水を差し、現実世界へと引き戻してしまう興ざめな要素だと言えなくはないか。私は子供のときにコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』や『失われた世界』を本当に夢中になって読んだのだが、あれほどの喜びがあったのは、その読む行為に何の打算もなかったからに他ならない。

図1:意味も分からず読書欲が湧いてきた、為末大『「遊ぶ」が勝ち』

何年か前に為末大の『「遊ぶ」が勝ち』という本を書店で買った。タイトルだけ見て、理由も分からず「読みたい。読まなくてはならない」と直感した本だった。そもそもこの著者を知らなかったし、書評も広告も何も見ずに買った本だった。何故読みたいと思ったのか、理屈で説明することはできない。ただ当時大学受験のための勉強をしていた自分にとって「遊び」と「学び」の共通性について気がつく重要な本になって、本当に印象深い本になり、今でもこの書籍から受けた影響は大きく残っている。情報が氾濫する現代で、書評や著者プロフィールなどを一切チェックせず体当たりで本を買い、読むのは少し勇気がいるものだ。しかし読書の最高の興奮というのは、石橋を一切叩かずに直感を信じ、エイヤッとその本に賭けたときにしか得られない。周辺情報を集め始めた時点で一種のネタバレがあり、また同時に打算というリアリティが本に忍び込んできてしまうためだ。

図2:読書論から話は初版本、活版印刷、古典読解にまで及ぶ(図は『役に立たない読書』p.111より)

本書はこのような「外的・内的契機」という視点による読書論の他にも「図書館で本を読むと集中できないのはなぜか」「重複所蔵を恐れるな」「古書店と鮨屋は顔を覚えてもらってからが楽しい」といったユニークな読書論が並び、読みでがある。元々雑誌連載されていたエッセイを大幅に加筆して集成したものであるため、後半の方は古書や印刷の歴史、『源氏物語』などの古典読解、朗読の話になっていき『役に立たない読書』の主題から外れる感じはある。また電子書籍や翻訳文学の是非に関しては意見が分かれるところだが、幅広く書物の雑学に触れられる点では面白いだろう。

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投稿日時: 2019/02/15 ― 最終更新: 2019/02/17
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