前田英樹『愛読の方法』文字と知識と時間について

前田英樹『愛読の方法』

この本は、ごく大まかに言って、ふたつのことを書いている。ひとつは、文字に書かれたものを軽々しく信じるまい、ということであり、もうひとつは、書かれたものへの軽信から私たちが常に免れているための手だては、すぐれた本を愛読するしかない、ということである。

『愛読の方法』巻末より

全体として観念的で、テクノロジー批判は些か陳腐であり、古典至上主義的な主張も極論めいたところがある。本文は冗長で、議論の方向性も分かりにくい。ただ一点、発話としての言葉と、文字としての言葉の違いから生まれる、己の理解力を超えた読書という行為についての考察はとても考えさせられたので、それについて述べたい。

「文字から得た知識」は確認できない

本書の中で前田は「現実に目の前にいるあなたのために発せられている、呼吸や抑揚を伴った、生きた表現」としての言葉に対し、文字というものをそういった現実の文脈やライブ性から切り離された、単方向的な情報発信であるとする。そして実際の言葉の場合は3分の発言に対して聞く方も3分の傾聴を必要とし、発信者と受信者の時間の同期性(それは思考量の同期性に近い)が保たれているのに対し、書き手と読み手の関係においてはそれが成立しない、と述べる。

本が書かれる時間と、それを読む時間とは、同じではない。読む時間は、書かれる時間よりもずいぶんと短いのが普通だが、この短縮の度合に制限はない。ないが故に、決して読めない分量をもう読んだと言い張り、言っているうちに、自分でもすっかりその気になってくる。

この指摘は実に鋭い。自称「読書家」が、なぜ読書量に対して一向に知性を増大させられないかの根本原因を解明しているからだ。

本来、言葉には緩急があり、また発信者と受信者の思考能力の差もあるから、必ずしも意思の伝達に際してお互いの時間が同期している必要はない。しかしながら書かれている文字を読み取る作業では、受信者側だけが一方的に時間を、無限に伸縮させる権利を手にする。1行を読むのに0.5秒しかかけないことも、10時間かけることも自由である。だからこそ、俺は1年間に数千冊の本を読むんだと豪語して見せる速読家も出現するわけである。

「しかし、限度のない精神などというものはない」と前田が指摘するように、有限の精神が他者の思考を理解し咀嚼するには、相応の思考量が必要となる。私も内容の濃い文章を読む際は、頻繁に本を置き、咀嚼しながら進むため、一冊を読むのに数日かけることも珍しくはない。そうでなければ、内容を血肉とせずに文字列だけを追うことになりかねない。

会話の場合は、この咀嚼作業を発話者と一体となって行う。発話者が言わば「理解の監督者」となって、対話の中で常に双方の理解度を付き合わせるから、そこに多くの齟齬があるにせよ、最低限の意思疎通の成功は担保されるわけである。

ところが読書ではこの裁量が全て読み手に託される。読み手が1ページを5秒で読み込んで見せて「完全に理解した」と宣言しても、それを確認する手段はない。そのため読み手は、勘違いしたままに己が凄まじい理解速度を発揮しているのだと、自己の精神を過大評価してしまい、結果として「沢山読んだ(つもりな)のに、まるで知恵を伴わない愚鈍者」が誕生してしまう。実際に彼が手にするのは、ミイラのように枯れた知識の大木である。本書風に表現すれば、壮大なる文字の羅列が、脳の表面にこびりついている状態に過ぎない。

このような論理であるから、本書は文字を否定しつつも、別に映像のようなリッチメディアを賞賛する方向へ向かうわけではない。むしろそれらは表面的にはリッチだが、文字が抱えている情報の孤立性という課題に関してはほとんど解決できていない。

文字と「時間の同期性」

私の考えでは、ネット時代はこの時間の同期性の混乱が、一層増している。その代表格は「ニコニコ動画」だ。「ニコニコ動画」は非同期の情報発信を同期しているかのように、意図的に錯覚させるメディアである。そのため「いつでも楽しめるライブな会話」を「錯覚」して楽しむには優れているが、実際にコメントに対してコメントしようとすると、恐ろしくカオスな状態になる。時間軸が完全に捻れ、もはや意思疎通云々のレベルではない。ここではある意味、時間性を喪失した文字の不気味さが最大限に発揮されてしまっている。

話を戻す。本書では冒頭から文字への不信・批判が続くのだが、その情報は今まさに文字によって伝達されているではないか、というブーメランが返ってきそうである。それについて前田は、優れた文章技術には、時間から切り離された記号である文字に、再び時間性を取り戻させる力があるのだと説明し、それを「作家の技」と呼ぶ。

そうすると、ベルクソンが言う「作家の技」は、読む人に、読む時間を真に取り戻させる技だと言い換えても構わないことになるだろう。優れた文章は、読む時間を、そのまま生きる時間にする。

優れた文章は記号の羅列では決してない。優れた文章を読む時、その文章を無意識のうちに最適の速度で読み、時間がゆったり流れているような感覚に入り込むことがある。それは読み手の時間感覚が、自然と文章本来が持つ時間に同期させられたからではないか。優れた文章の読解は、あたかも生きた対話であるかのようだ。逆に十分な理解を伴わぬ速読・乱読は、この時間感覚を文章から強制的に剥ぎ取り、無理やり自分の独りよがりな時間の流れに押し込める、暴力的な行いではないのか。

異常な多読家の正体

以上を指摘する第一章の冒頭は、示唆に富んだものである。多読家と知性の多寡については以前から私の関心の的だった。いわゆる「知の巨人」としてメディアに紹介される人間は今日、大勢いるわけだが、この「知の巨人」の方々は本を鬼のように読んでいるらしいのに、少なくともその半分くらいはとても「頭が良い」とは思えない。これについて私は2つの説明を考えている。

1つは単にこういった「頭の悪い知の巨人」とは、見栄っ張りの権化であるという説明。彼らが「1日に10冊読む」と嘯いてみせるのは、他人からある本を読んでない、あることを知らない、教養が十分でないとの批判をかわすであり、同時に読んでいない本があるという欲求不満を単に解消するためである。読書の満足感と既成事実を得るべく乱読するので当然、本の内容は上滑りで咀嚼は不十分となる。あるいはよほど内容の薄い本ばかり読んでいるか、あるいは本当に凄まじい知性の持ち主でIQ400くらいあるのかもしれない。それは分からない。

もう1つは、知識の増大そのものは、その人の感情面での発達に直接的には寄与しないという説明。ある人が「頭が悪く」見えるかどうかには、実際の知識の多寡より、その人の振る舞いの方が遥かに関係が深い。そして他人の前で自慢げに知識量を誇ってみせるのは、かなり「頭の悪い」態度である。実際に書物から得た大量の知識が彼らの教養を深めさせ、社会的な成功を収めさせていたとしても、知識はその人の人間性そのものを直接的には変化させない。そのためパスカルの言うところの「『幾何学的精神』は異常に発達しているが『繊細な精神』は幼児段階留まっている人」になってしまっている可能性がある。もちろん、読書で得た知識を感情的発達や振る舞いの洗練化に昇華させることは十分可能である。しかしこの手の人達は、そういった自己観察や自己批判に無頓着なため、いつまでも「頭が悪く」見えてしまうのである。

誰も己がどれくらい知性的であるかを測定することはできない。しかし自分が蓄えた知識が真の知恵に昇華されているかを判断する1つの基準は、私は現実への応用、実践性にあると考えている。ソクラテスが唱えた知行合一の考え、すなわち「徳を知りつつ実行できないなら、それは結局徳を真の意味で理解していないのだ」という考えは、あらゆる知性に応用可能である。書物から学んだ知識が実行され、現実世界を自分にとってより良い方向へ変化させるのに寄与したとき、その知識は確かに自分の血肉となっているのだと実感できるのである。

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2018/10/27 ― 最終更新: 2019/02/16
同じテーマの記事を探す