ジョルジョ・デ・キリコ《偉大な形而上学者》

キリコの絵を観ると、常に何となく、寂寞とした不安に晒される。キリコの絵は、静止している。それもモチーフがポーズを取って、努力して不動を保っているとかではなく、一切の分子運動が凍りつき、千年経っても、万年経っても、ひょっとしたら億年くらいそっぽを向いてからパッと振り返っても、やっぱり静止しているんじゃないかと思わせるほどの、絶対零度のステイシスなのである。だからキリコの絵は、異常なほどの寂しさがあるのだ。

もちろん怪談ではないので、絵画が不動なのは当たり前なのだが、どんな下手くそな絵であっても、そこに何らかの「生命の指紋」が残るはずなのである。

例えば私がマリリン・モンローの肖像を描いたとしよう。私は素人なので、当然そこに描き出される彼女は、顔面パンチを5,6発食らった後のマリリン・モンローになってしまう。しかし鼻が醜く変形し、まぶたがピクピクしているとしても、そこにはそれなりの生命の息吹が宿っているはずなのである(虫の息かもしれないけど)。何故なら、絵画であれ、写真であれ、イメージが何らかの媒体に写されるとき、筆であれ、光であれ、何らかの物質が生命の鼓動を受けながら、その媒体に生命の指紋を残すからだ。だから私がマリリンの輪郭を不器用になぞるとき、私のぎこちない手付きが筆を伝わって、絵が描かれる媒体に、私という生命の指紋を残すのである。

ところがキリコの絵にはこれがない。キリコの生命の指紋は完全犯罪のごとく、絵から拭き取られている。キリコの絵は、密室殺人事件である。

ジョルジョ・デ・キリコ《赤い塔》

一切の生命感を剥ぎ取られた世界。そこはファンタジーの世界のようであり、ディストピアのようでもあり、この世には存在しないどこかのようでもある。彼自身が彼の絵を「形而上絵画」 と呼ぶ所以である。

私はふと、キリコの絵を観ながら、ひょっとしたらマシーンが観ている世界というのは、キリコの絵のようなものかもしれないと感じた。キリコの絵には、特に必然性のないオブジェを重ねて、何らかの形象を模しているようなものが多い。

ジョルジョ・デ・キリコ《ヘクトルとアンドロマケ》

我々の認識している世界というのも、「生命の眼」というフィルターを剥ぎ取れば、ひょっとしたらこんな風に映るのかもしれない。機械が意識に近いものを獲得し「機械の眼」でこの世界を観たら、肉と皮が接合して作られた人間というのは、我々がキリコの絵に見る無機物の継ぎ接ぎと同じように、必然性のないオブジェ同士がくっついて何かを象っているように見えるのかもしれない。

キリコの時代にはまだ、そういったマシーンだの人工知能などは存在すらしなかったが、彼の描く認識の捨象された無機質な世界は、図らずも未来の生命が目撃する世界を映し出していたようにも思えるのだ。

LINEで送る
Pocket

投稿日時: 2019/07/22 ― 最終更新: 2019/07/25
同じテーマの記事を探す