完成させるな

2021/06/11 ・ 雑記 ・ By 秋山俊
ピカソ「アンヘル・フェルナンデス・デソト氏の肖像」(1903)

なにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように。

Ne change rien, pour que tout soit différent.

ブレッソン

一般的に物事というのは「完成」を目指すべきものだと思われているが、私は何かを「完成」させようという姿勢に、常に懐疑的である。何かを「完成」させるべきかは慎重に判断した方がいい。なぜなら「完成」が「良い」かというと、それは全くそうではなく、「完成」とは一つの「おわり」を意味するからである。それは「完成」という1つの状態に過ぎない。そして「未完成」という状態の方が優れていることも、往々にしてある。

結論から言うと、何かを「完成」させるべきでない場合、意図的に失敗したり雑に仕上げたりして、「完成」を妨げるのが良い。

人間関係の「完成」

たとえば「恋愛は片思いしている間が一番幸せ」という言葉がある。これは真理である。「片思い」の1つの対極として「セックス」があり、それは男女関係の1つの「完成」でもあるが、あたかもロウソクの全身に火をつけたが如く、そこから二人の関係性は急激に「消費」されてしまう危険をはらむ。この場合、お互いが「片思い」でその本心を打ち明けなければ、その関係性が100年間、幸福に持続した可能性も0ではないのである。

そこで「この人とセックスしたら終わる」と直感した場合、それらしい誘いを受けても、わざと「家でYouTubeを観ていたら忘れてた」「僕はインポテンツだ」などと言い張って、据え膳の皿を叩き割り、のらりくらりと終局をかわし続け、人生の終わりまで「友達以上恋人未満」の幸福な関係を持続させるという戦略も考えられるのである。

物語の「完成」

フィクションの世界では、物語の中盤で「主人公 vs. 師匠」のような最高のカードをうっかり切ってしまい、つまり瞬間的には「完成」された場面を作ってしまい、その場面が盛り上がり過ぎたがゆえに、後の全ての場面が盛り上がりきらず尻切れとんぼに終わる作品は、枚挙にいとまがない。

『ドラえもん』や『サザエさん』が「完成」する必要はない。おそらくそれは、ほとんど誰にも望まれていない。彼らは永久にフィクションの煉獄を漂っていればいい。

ある物語が非常に興味深くそそられる場合、その作者の言葉とかメイキングなんかには、下手に触れない方が幸福かもしれない。「この物語は一体どうなっているんだろう」という疑問を生涯抱き続けていた方が愉しめるかもしれないのだ。

技法の「完成」

またこれは人生や物語の世界だけでなく、文章の書き方とか、絵の描き方といった「技法」に関しても当てはまる。上達に熱心な人が「自分にとって理想の文体や画風」を突き詰めると、おそらくそう長くかからずに、1つの「完成」の域に達する。消費者は「スタイルが完成したら、後はそれを永久に繰り返せばいい」と呑気に考えるかもしれない。しかし作り手の立場になって欲しいが、同じことを続けているとすぐ飽きてしまうのである。そもそも文や絵を熱心に作っている時点でクリエイティブな人種なのだから、単調さや無発展には普通の人以上に耐え難い。

結果として、あるスタイルを「完成」させた作家は、遅かれ早かれそのスタイルを捨てざるを得ない、という悲劇に見舞われる。作家の作風がどんどん変わっていき、ときに「退化」したように見えるかもしれないが、作家に言わせれば「続けるためには変化せざるを得ない」のである。

スタイルが「完成」するたびに捨て去るのも1つの方法なのだが、もう1つの方策として、スタイルをあえて「完成」させないように、「完成」の周辺をフラフラしながら、のらりくらりと「変化」し続けるという手もある。ここでのポイントは、決して自分にとっての「最強のストロング・スタイル」に手を伸ばさない、ということだ。自分にとっての理想を突き詰めていると、ある時点で完全に洗練されてしまい「このパターンが最強だ」というのが見えてしまう。

しかしそれを素直に実践するとスタイルが「完成」してしまい、それはつまりスタイルの死刑宣告に等しいので、一部分をわざと実験的に、気ままに仕上げることにより、常に改善や発展の余地をのこし続け、スタイルを生き延びさせるのである。

幸福とはその到達点にあるのではなく、「幸福へ前進している予感」の中にある。

「不完全であれ!」

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投稿: 2021/06/11
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